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校友会のあゆみ

大正期~昭和初期

大学への昇格と校友の大同団結

大正9(1920)年、千里山に校地を求めて、従来の夜間専門部のほかに、昼間学部を設置、同11(1922)年には大学令による大学に昇格、名実ともに大学としての地位を確立し、現在の関西大学へと成長する転機をなした。同14(1925)年に法学部、商学部合わせて55人の第1回卒業生を送り出している。

大学では、大正11年の昇格を機に、「千里山学報」(のち「関西大学学報」と改題)を創刊して、大学のPR活動が活発になるにおよんで、校友会活動も促進され、従来の大阪支部のほか、東京、岡山、福岡などの支部が相次いで結成されている。昭和5(1930)年発行の校友名簿には東海、神戸、明石、姫路、愛媛など10支部が記録されるに至った。

その後、学部の卒業生数が増加すると、新しく千里山学士会が結成され、従来の校友会と対立する形となったが、そのうちに大同団結の機運が熟し、昭和13(1938)年2月14日の校友総会で、従来の12条からなる簡単な会則を根本的に改正した。これが現行会則の原形をなすものである。そして同年11月20日、全国校友に呼びかけて、初の大々的な校友総会を大阪中之島の中央公会堂で開催した。参加者1,000人に達する大盛会で、これを契機として、校友会活動はとみに活発となり、まさにこの総会が今日の校友会発展の原点といえるだろう。

以後の数年間に結成された支部は、国内はもとより海外でも10以上となり、支部組織は40を数えた。また、各界の第一人者を招聘して月例の講演会を開催するとともに、尾道、金沢などの地方で時局大講演会を開催して大学の紹介につとめた。一方、戦時下、文科系大学の存続が危ぶまれ、校友会では理工科系大学設置の運動を起こし、工業専門学校開校の推進力になるなど、この時期、校友会は精力的に活動している。

10年ぶりの名簿発行

第2次世界大戦による痛手は甚大なものがあり、多くの校友同窓を失い、戦災戦禍による職場、住所の変更、敗戦の混乱は想像を絶する状態となった。大学では、いち早く昭和22(1947)年6月に校友課を新設して、同窓校友の消息の把握に努め、昭和17(1942)年版を最後とした校友名簿も昭和28(1953)年に10年ぶりに発行している。

なお、昭和26(1951)年には、大学の組織を財団法人から学校法人に切りかえ、法人の評議員の過半数は校友から選出することとなった。校友が大学経営に参画することが制度的に決まったわけで、これは校友会にとって特筆すべき事柄である。

名簿画像

機関紙『関大』の発刊と組織の拡充

昭和27(1952)年初めて公選選挙によって選ばれた法人役員は、革新の気に満ち、創立70周年を目前にして学園拡充整備計画を発表した。校友はこれに協賛して募金に応じ、昭和30(1955)年5月には、校友会機関紙『関大』を創刊し、母校と校友ならびに校友相互を結ぶ媒体として、また母校のPRに重要な役割を果たした。終戦から10年を経て校友会再建活動が活発に進められ、組織の整備に伴って昭和32(1957)年に校友会事務局を設置したことで、校友会の自主的体制がようやく整った。

新たに発足した校友会は組織づくりに専念し、従来大阪市内・府下には8つの支部組織があったが、大阪市内22の各区に、また府下の衛星都市ごとに支部を結成した結果、新たに38支部が設立され、全国各地の支部を合せて98の地域支部となった。職域会や同期会も続々と結成され、校友会組織が著しく拡大したのはこの時期であり、学術講演会、文芸講演会、また地方講演会をしばしば開催したのもこの時期である。

機関誌『関大』

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